大人になって理系学部に入り直して気づけたこと

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さっきTwitterを見ていて峰宗太郎先生が先生宛のマシュマロに答えてらっしゃるのがあった。それを読んで思わずコメント付きRTで色々書き始めたんだけど、どんどん長くなっていく自分の文章を見て、いやこれはここで言うべきじゃなくて自分のブログで書くことかもなと、ずーっとお茶を引いてたこのブログを開いた。久しぶりだな。こんにちは、私のブログよ。

私は峰先生や、私がフォローしている心あるお医者様方の意見の言い方に「科学者」を見ている。10年ちょっと前、人生の転機で私は理系学部に入り直して今は染色体検査技師という科学の分野で働いて生活している。理系分野の経験はたかだか10年ちょっとの新参者だが、かなりな大人になってその分野を学んだことで気づけたのかもな、ということがある。それはそれまでの自分のいた世界との物の考え方や言い方の違い。英語が話せる人の日本語と日本語オンリーの人の日本語に違いがあるようにそれは明確に違っていて、私のフォローしているお医者様方はみんなその方法を使われているし、時々生じている一般の人の誤解もその方法を知らないゆえに生じているように思えている。それがなんなのか。それはまさに上の峰先生のツイートにあるように「絶対」と言わないということ、言い切らないこと、であった。

理系学部3年から「論文の読み方、書き方」の授業があった。英語が第二言語な上に専門教育が始まったばかりの3年でさぁ、この論文”たち”を読んできてね、そして質問に答えてね!と言われてまさにちびまる子ちゃんばりの顔に縦線出まくり白目なりまくりで始まった授業だったが、予想外にその授業はとてもためになったし面白かった。今回の峰先生たちに見た「科学者の物の見方、言い方」もこの授業を受けた結果に得た私の意見です。アメリカ(テキサス)の大学では教養課程で「文章の読み方、書き方」は必修でそれはそれでヒーヒー言って単位をとったんだけど、専門課程での「科学論文の読み方、書き方」はまたtotally different world!でありました。肝は「科学論文」という部分。教養課程での「文章」と専門課程での「科学論文」は同じ「言語を使って表現されたもの」でありながらその読み方書き方はまるっきり違っていたのです。自分の文章力の低さのせいでなんだかやたら長くなってきたので今回はその骨子だけ。科学論文を読む・書く授業で私が学んだことは

主語は自分ではない

言い切らない

絶対はない

ということでした。細かくはもっともっとあるけど大まかにはこういうことで、そしてこれらはそれまで読んできた文章とは全く違う世界でとても興味深かった。”私たちは”実験でこれらを観察したのではなくて実験で”これらのことが”観察できた。主役は自分たちではなくて観察された事象。どんなことがなされてどんなことが見られたのが重要で誰がやったかというのは全く問題じゃない。そして、自分たちが観察したその事象はあくまで自分たちが行ったその実験で見られたことであって、それが普遍的に起こるとはその時点で言い切ることはできない。だからこの論文で示している結果はこうであるからこれこれである可能性があると考えられるが違う条件下ではあれそれになる可能性もあり・・・と決して言い切らず他の可能性にも触れたりする柔軟性がある。それは言い切ることを恐れてそうするのではなくて、実際一つのグループや個人ができることや想定することには限界があるということを認めて、他の科学者の更なる研究を求めたり自分たちのこれからの研究の可能性を発表したり科学全体でその研究を極めて行こうぜ!って感じ。そしてこれと同じことで、言い切らないということは「絶対」という言葉を使う場面はない。これまで長いことたくさんの研究がされてきた事柄に対しては科学者の中にも「常識的な知識」として受け入れられてることがあるけれども、それでもそれが絶対という言葉使って語られることはない。それまでのたくさんの論文のソースをつけて「これらについてはこれこれだという共通認識が得られていることであるが」というような言い方はされても「もうこれについては絶対的な真実だ」とは言われない。

この科学論文的な言い方は科学を語る上で必要最低限必要な条件であると思うのだけど、悲しいかな、このことでこういう言い回しを知らない人たちがとんでも情報の方に興味を持って行ってしまうことが起こってるような気がする。Twitterやその他メディアで心あるお医者様や研究者の方々が正しい情報を流そう、デマを潰そうと日々頑張っておられる。そしてその心ある方々は常に科学者として正しく言葉を使われて発信されている。方やとんでも情報を流す医師や自称医療ジャーナリストたちはこの必要最低限の条件を満たさない言い方で何かを言い切り、これぞ真実的なことを言い放つ。科学者としての正しい言い方に馴染みのない人たちは、正しい言い方の方に

「なんだ、なんだかふらふらした言い方して」

「はっきりと言わないなんでずるい」

「何もちゃんとわかってないってことじゃないか」

という感想を持ってそれらが信用できないような印象を受けてしまう。そんな中でとんでも情報の方の

「これこれって、こういうことなんですよ!これらは絶対にこうなりますから!」

という無責任な言い切り口調の方に 「こんなにはっきり言ってる方が信用できるな」 と寄り添って行ってしまう。そういう悲しいことが起きているような気がしています。

かと言って、これらがどう解決されるのかということはどう考えてもわからないのです。私も理系学部に入り直して知ったことで、そういう分野と無関係な人たちがそのことを知らないのは至極当然。責められることでは決してない。責められるとしたら無責任なとんでも情報を流す人たちなんだけれど、その人たちを止める術も、その人たちを信じないでと伝える術も私にはよくわかりません。こんな状況で心あるお医者様達は日々、忙しい業務の合間に一つ一つデマを潰していっていらっしゃいます。一つ一つコツコツと。今の私にできることはそれらをとにかく応援することです。

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